八丈島の歴史に関する資料は、その量こそ少ないものの、いずれも大変興味深いものです。ここでは、人類の最初の痕跡や黄八丈などの諸文化の起源から流人と彼らの苦悩、第二次世界大戦時の防空壕や特攻兵器の話、「日本のハワイ」という愛称についてなど、広い範囲で島の歴史の概要を見ていきます。
ご興味のある方はぜひご一読ください。
目次
歴史のあけぼの
伊豆諸島の民族的英雄:源 為朝
中世
江戸時代
流人と彼らの旅
江戸時代の人口
幕末以来
戦争中の八丈島
日本のハワイ
歴史のあけぼの
約7000年ほど前、丸太を石器でくり抜いた丸木船で黒潮を渡って来た人たちが八丈島における最も古い住民であると言われています。しかし、彼らはそのまま住み続けたわけではなく、島伝いに移って来て、また他の島へ移っていった、もしくは、そのまま島内で死に絶えてしまったということが調査により分かっています。
かつては、水が近くにあり、木の実や山芋、魚、貝、鳥などが獲りやすい場所を選んで住居を構えており、遺跡から出た骨からは、人の手によって持ち込まれ増えたイノシシを狩っていたのではないかという考察もされています。
伊豆諸島の民族的英雄:源 為朝
為朝は平安時代末期に伊豆大島に流された流人です。八丈島の伝説では、彼は八丈島と小島を支配したが、敵に攻められたとき小島で自害しました。
それから、彼は「八郎大明神」と呼ばれる神になり、天然痘に効き目のある神として多くの人々に信仰されました。
源為朝のレリーフ像は、徳川家康の命令で1602年に作られ、このレリーフは4回江戸に運ばれ、徳川将軍家の人々も江戸に住む多くの人々とともに健康のために祈りました。
口コミ伝説が様々ですが、もう一つ周知の話では源為朝が大島で自らの弓で幕府の船を沈没させたという伝説もあります。
中世
中世の八丈島に関する資料は多くありません。八丈島にもたらされた金属器や陶器から想像したり、数少ない旧家の資料をもとに次のような物語を考えることができます。
八丈島が本土の支配下に置かれたのは、東鑑によれば鎌倉時代の1186年(文治2年)で相模の国に属したとれています。14世紀初め(鎌倉時代末期)には、鎌倉幕府の影響下にありました。南北朝時代には、足利氏との戦いに敗れたグループが敵の追撃を逃れ、島に渡りました。統治機関が島に置かれたのは、室町時代の1338年(延元3年)、足利氏の執事上杉憲顕が奥山伊賀と菊池治五郎を代官として在島させたのが最初とみられます。ちなみに、単なる憶説ですが、現在島では奥山と菊池という方が最も多いので、もしかして上記のきっかけですかね。
1440年(永享12年)に神奈川の領主奥山宗林が支配したが、15世紀の末期、三浦・北条氏の勢力が入って以来、三氏の抗争が続き1515年(永正12年)になって北条氏が勝利を得、全島を支配するに至りました。彼らの支配は、1590年豊臣秀吉に滅ぼされるまで続きました。
この権力争いの原因は八丈島特産の貢租「黄八丈」にあったとみられています。つまり、本土の有力者がこの島に求めたものは、上質の絹織物でした。島民はその要求に応え、一生懸命、絹を織ったと伝えられています。こうして島を代表するものの中で、黄八丈の織物はその一つになりました。
江戸時代
江戸時代になると、八丈島は徳川幕府の直轄地になりました。はじめのころは江戸から代官や手代が来島したが、やがて幕府の指導を受けながら、地役人を中心とした各村の代表が政治を行うようになりました。
この島では、年貢になるべき米がほとんど採れなかったので、特産品の絹織物が税となっていました。また、島の暮らしを支えるための商品としても多くの絹織物が作られ、年貢とともに江戸に運ばれました。途中、流れの速い黒潮を越えるので、航海は春と秋の2回しかありませんでした。
1606年に宇喜多秀家が流されてきてから、八丈島は流刑地になりました。約260年間に1800人以上の流刑者がありました。また、明治に至るまで徳川幕府の支配下が続いた間、しばしば天災地変・飢饉・悪疫に襲われており、島民の生活は厳しく、苦しいものでした。
流人と彼らの旅
日本では、流刑は8世紀(奈良時代)からありました。当時は九州や山陰の離島や伊豆半島に流されることが多かったが、江戸時代になって、江戸で裁判が行われるようになり、流人は佐渡島と伊豆諸島とに送られました。
八丈島では、関ヶ原合戦で敗れた宇喜多秀家から100年間は、政治犯、思想犯に限られたが、やがてケンカやバクチなどでも送られるようになりました。文化や技術を身に付けた流人が多く、島人の生活に大きな影響を与えました。1871年までに1800人以上が送られたが、流刑者は時代を映る鏡でもありました。
流罪人の統計は次のどおり(八丈島誌,2000,p.167-168)
士:186
従者:25
下士:163
小者:117
浪士:33
僧:237
農:254
工:7
商:54
雑:74
女:69
無宿:462
店借:196
流人の総数は上記によると1877人だとわかりますが、八丈島探索学習ガイドブック(2005,p. 45・46)によるとその数は1898人です。それはなぜでしょうかね。注目すべきは、判決が江戸に下ろされていたが、受刑者は全員八丈島に着いたわけではないということです。旅中に亡くなったりケースもあった上で、流人に関する公式な統計はただ1681年に始まったので最終的には曖昧なところであり、総数は情報源により異なることは仕方がありません。
流刑者が増えると、幕府は三宅島・新島の船を雇って流人船とし、春と秋の2回江戸を出発しました。家族と幸い別れ、船は隅田川の河口近く永代橋の袂から出発しました。流刑者は、三宅島で全員下船し、数ヶ月をそこで過ごした後、八丈島に向かいました。船は50~80㌧の帆船で、長さ6m幅2m、高さ1.5の船牢を積み、流刑者を収容しました。
八丈島では、風向き次第で八重根または神湊(底土)に着き、流刑者が上陸すると、くじ引きで住むべき村が決められ、彼らは以後「渡世勝手次第」(自分の能力で自由に生きなさい)ということになりました。
送る生活はさまざまでした。本土からの仕送りに頼る者、自分の知識・技術で稼ぐ者、単純な作業で食べさせてもらう者などでした。流人は、サツマイモ・絹・焼酎など導入し、島にとって大切な人々となりました。原則では、結婚が禁止されていたが、「水汲み」の女性を同居させるの名目で家庭を作る者が多かったです。それは皆に黙認されており、現地の人もその女のことを差別や軽べつなどしたりせず、お付き合い助けもしました。
流刑の期間は決まっていませんでした。幕府に慶事があった時に、何人かが赦免されたが、死んで何年も経ってから赦免の知らせが届くこともありました。当然、与えられた判決に不満に思う流刑者も、食糧が乏しい八丈島の生活を耐えがたく思う者もおり、80人以上の流刑者は島を脱出するという危険な挑戦したが、そのほとんどが失敗しました。脱出しようとした18事件数の中から、たった1件が成功だったとみられています。赦免に関しては、700人以上が許されました(八丈島探索学習ガイドブック,2005,p. 45・46)。ちなみに、八丈島に着いたらまた犯罪になる行為に関わる者はさらに八丈小島か青ヶ島に流されました。
豆知識:太平洋戦争後、約1980年までは流人を記念する「流人祭」が毎年行われていました。
言うまでもないが、流人は導入したサツマイモで飢饉を救い、他の技術のお伝えなどで島の生活を向上させました。そのような歴史を祭として年に1度楽しみになっていたが、なぜ中止となったか不明です。
現在、毎年の8月に行う八丈島納涼花火大会は流人祭の欠片と考えられています。
江戸時代の人口
八丈島の人口は長い間登録されなかったが、公儀が食糧を必要とする島民に適切な量を配給にはおおよその人数は必要でした。そのデータをもとにし、大ざっぱな人口のイメージが描けます。但し、食糧を要らない者も、欠乏で亡くなる者もいたので、次のデータは必ずしも正しい平均人口を示すことはありません。また、数は八丈小島と青ヶ島の人も占めています。大ざっぱな人口:
1701年ー3664人
1729年ー5770人
1753年ー4863人
1766年ー6714人
※1774年ー5690人
1792年ー7071人
1816年ー8312人
1829年ー8650人
※1840年ー7826人
1858年ー8921人
1860年ー9633人
※1868年ー9111人
傾向は上下しながらも着実な増加を示します。「※」を付けたものはより詳しい情報があるため、さらに分析しましょう:
1774年には、上記の人口5690人の中から4770人(女2518人・男2252人)が八丈島に住み、157人は流人でした。残りの920人は八丈小島と青ヶ島の合わせた数です。
1840年には、上記の人口7826人の中から6619人(女3785人・男2834人)が八丈島に住み、235人は流人でした。残りの1207人は八丈小島と青ヶ島の合わせた数です。
1868年には、上記の人口9111人の中から8127人(女4403人・男3724人)が八丈島に住み、218人は流人でした。残りの984人は八丈小島と青ヶ島の合わせた数です。
一貫性のない大ざっぱなデータだとしても八丈島誌(2000,p. 177-178)に残っているもので当時の状況が把握できます。
幕末以来
江戸幕府が滅びても明治2-4年に新たに流刑の判決を受けたのは68人(旅中死亡10人)だったが、明治時代は赦免の波を招きました。明治元年に120人を赦免する最も多い赦免状が島に届き、翌年に2番目に多い赦免状99枚が届きました。明治14年までは一人を除いて流人全員が赦免され、残りの一人が明治17年に亡くなったことは八丈島の流人の物語に幕を下ろしました。本土に戻った者がいたが、ある者に八丈島は新しい故郷になりました。
明治4年には、日本に最初の学校が末吉に建てられ、翌年に「末吉小学校」に名乗りました。同年、誰でも学校に入れる決まりができ、どの村にも間もなく公立の小学校が開校しました。明治7年に青ヶ島小学校、明治8年に三根小学校・中之郷小学校、明治10年に樫立小学校・大賀郷小学校が開校しました。八丈島の人達が教育に熱心だったことがわかります(わたしたちの八丈島,2017,p. 64)。
明治3年に韮山県、同4年に足柄県、同9年静岡県の所管となり、同11年1月11日に東京府に属して以来東京都の今日に及んでいます。明治41年に八丈本島の5ヶ所に島嶼町村制が施行されたが、小島の2ヶ村には施行されず、昭和22年10月の地方自治法施行まで名主制度が続きました。昭和29年10月1日、町村合併促進法により三根、樫立、中之郷、末吉、鳥打の各村が合併して「八丈村」に、翌30年4月1日、八丈、大賀郷、宇津木の各村が合併して「八丈町」が誕生し、今日に及んでいます。昭和44年に鳥打小・中学校、宇津木小・中学校廃校全員(24世帯・人口91人)離島し、八丈小島は無人島になりました。
戦争中の八丈島
八丈島は第二次世界大戦の影響を避けませんでした。大勢の人が動員されたり、軍属に関わらせたり、500人以上の人が犠牲になったとみられています。戦争が脅かすようになっていく間に、島民を疎開させることもありました。ある時、約6500人(女性・子供・高齢者)が疎開させられ、人口はたった2515人となり、記録開始以来最低の人数となりました(わたしたちの八丈島,2017,p. 18)。一方、戦争終結の着後に人口の流入が起こり、昭和25年に1万2887人の最高記録の人口を達成しました。それ以来、定められた土地、キャリア展望のないなどの理由で人口が順調に減っています。令和2年6月時点では、現在の人口は7287人です。
戦争は教育にも影響がありました。そのころの学校の勉強は天皇のため、国のために尽くすことが重要という考えが中心に変わり、学校では昭和18年ごろから武道・体錬などといわれる、体を鍛える学習が増えてきました。学校行事には、兵隊の見送りや戦死した兵隊の出迎え、勝利を祈るための神社へのお参り、防空訓練、軍の作業などが多くなってきました(わたしたちの八丈島,2017,p. 66-67)。さらに、学校や大きな家が軍隊の宿舎や病院として使われることになり、生徒が代わりにお寺や家を借りて、分かれて勉強したが、結局若者先生も動員されたため、教育が根幹から中断させられました。
昭和19年6月、サイパン島がアメリカ軍に占領されると、次は八丈島に上陸するだろうということになり、軍隊1万6千人ほどが派遣され、空っぽか立入禁止状態として現在にも存在する洞窟陣地などを作り始めました。開発した特攻兵器の「回天」や「震洋」は特に目を引きます。
現代、ほとんどの残存する陣地が略奪され、普段の洞窟とみられます。明白なところは恐らく底土海水浴場の近くにある「回天」の洞窟と大坂展望台の当たりに新しく建てたお手洗いの先の左手にあるところでしょう。興味深いところでありながら、安全性の疑問で観光地とされず、その他の陣地は島のあらゆる場所に隠されたままで静かに眠っています。
開発した兵器に関しては、使用になれる前に戦争が終結しました。
日本のハワイ
日本経済は戦後混乱に陥ったが、いつの間にか指数関数的に成長し、戦後日本経済の奇跡といわれる、景気の回復が続きました。その結果、大勢の人が旅先のを探し始めました。当時は昨今と違い海外に簡単に行けることはなく、日本っぽくないリゾートのようなこの八丈島は人の目に入り、70-80年代は「日本のハワイ」として知られるようになりました。同様に、新たな貨客船や航空機が導入したところ、来島者数は1960年に約1万人から1965年に約5万人まで上昇し、1973年には、21万3932人の来島者が最高潮に達しました(わたしたちの八丈島,2017,p. 41)。
そのころ、豪華な八丈ローヤルホテル・八丈国際ホテル・八丈温泉ホテルなどが建てられ、大勢の客を招いたが、海外に行けるようになり、来島者が減少したため廃業となりました。それぞれが立入禁止として未だに廃墟のままに残存します。面白いことに、温泉ホテルは来島者の減少を問わず、温泉の泉源が乾いたことで残念ながら廃業となったみたいです。
ローヤルホテルに関しては、国内の中で最も大きく、高級な宿泊先であったが、2006年の最終閉鎖からはアクセスナシで眠っています。ホテルの姿、内装などにご興味を持つ方は「トリック劇場版2」という映画をご覧になれば良いでしょう。残る写真、オンラインデータは大変少ないなので、その映画は第一の方法でしょう。
良いお旅を!
八丈島101
引用文献
『八丈島誌』、八丈町:八丈町誌編纂委員会、2000。
『八丈島探索学習ガイドブック : 町制施行50周年記念誌』、八丈町、2005。
『わたしたちの八丈島』、八丈町:東京都八丈町教育委員会、2017。
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